広島カープ 1952年度登録選手&成績  ↑ 1951
 ↓ 1953
 スタッフ(※はプレーイング・兼任)  ← INDEX
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    背番 氏名 年齢
  監督  30 石本 秀一  55
  助監督※  .   1 白石 勝巳  34
主将※  12 門前 真佐人  35


 投手

  背番 氏名 年齢 登板 防御率 イニング 完封 完投 奪三振 出身
  13 笠松 実  36    15  1  3  4.67  52     1   10  
14 大田垣 喜夫  19    43  7 17  4.30(19) 180     5   42 尾道西高
  15(5) 斎藤 宗美  21                    
  17 杉浦 竜太郎  29    42  9 12  2.94(9) 208   1   7   36  
  18 長谷川 良平  22    55 11 24  3.32(12) 306   2  15  138  
  19(38、16) 萩本 保  24     4  0  0  4.50   4        1  
  20 渡辺 信義  23    43  6 14  3.62(14) 184   2   5   34  
25 松山 昇  20    19  1  5  5.24  54.2     2   20 興国商
  32 石黒 忠  22     1  0  0  9.00     .2        
33(23) 野崎 泰一  29    11  1  3  5.76  24.2        4 東急
35 榊原 盛毅  19    15  1  0  6.00  26.2        9 尾道西高
36 川本 徳三  18  11  0  2  7.31  16        3 基町高



 野手

  背番 氏名 年齢 投打 試合 打数 打率 HR 打点 盗塁 位置   出身  
  2 藤原 鉄之助  28    83 161 .236    14   C1F 巨人
 12 門前 真佐人  35   108 328 .250(33)   6  35   4 大洋
   27 長谷部 稔  21     6   2 .000        
    1 白石 勝巳  34   117 472 .220(45)   3  30  11  
  3 大沢 伸夫  36   120 441 .279(16)   2  43   4 12 大洋
    9 武智 修  27   107 388 .255(31)   6  41   5 23  
   10 山川 武範  30    97 358 .235(40)   5  37   4 32  
 19 広岡 富夫  24    41  30 .033       広島県庁
   24 磯田 憲一  28   103 244 .205    15   1 F23S  
    7 岩本 章  30    87 313 .268(23)   3  33   4  
    8 長持 栄吉  33   117 396 .275(18)   2  36   2  
 11 上野 義秋  32    79 103 .233   1   8   3 F1 西鉄
 15 野田 誠二  28 ☆☆  51  82 .244     3   大映
 22 塚本 博睦  34    87 199 .211   1  17   3 西鉄
   37 紺田 周三  19    47  91 .187     7   3  



【1952(昭和27)年度概要】
 まず、とんでもない騒動が起こった。いわゆる『長谷川引き抜き事件』である。
 この年から導入された『統一契約書』がエース・長谷川の手元に届くのが遅れた事をきっかけに、ドラゴンズが
 地元出身の長谷川の獲得に乗り出し、約3ヶ月もの間、セ・リーグ連盟をも巻き込む大騒動に発展した。最終的
 にはコミッショナー裁定(移籍無効)が下され、また長谷川にとっての『広島のお母さん』こと森田さんの説得も
 あって、結局元の鞘に収まる事になった。
 また、この年には積極的に選手の獲得を図り、他球団から門前(後の監督) ・野崎(後のV1時のヘッドコーチ)・
 大沢(大沢前日本ハム監督の兄)らのベテラン選手を迎え入れると共に、大田垣・松山・広岡(広岡前千葉ロッテ
 GMの兄)らの新人選手達も入団した。
 そしてこの年は、前年とは違った意味でチーム解散との戦いになった。 というのも、前年のセ・リーグ理事会で
 『勝率3割に満たないチームは強制的に解散させる事もありうる』趣旨の決定がなされていたからである。そんな
 中、カープは騒動に巻き込まれた長谷川の調整遅れが大きく響き、50試合消化時点での勝率が.250と危機に
 瀕したが、ここから長谷川・杉浦・渡辺に新人の大田垣を加えた投手陣が踏ん張りを見せ、また移籍のベテラン
 組が徐々に調子を上げていったことで勢いがつき、残り8試合の時点で勝率3割台に復帰、その後も必死に
 頑張って、結局37勝80敗3分・勝率.316 の6位でシーズンを終えた。
 この年最下位に終わった勝率.288 の(松竹)ロビンスは、翌年上記決定が適用されて(大洋)ホエールズと
 合併させられてしまっているので、正に危機一髪のところだった訳である。


○1952年の貯金の変遷